昨夜の懇親会の興奮がいまだ冷めやらぬ私です。
実は昨日の昼間には、嫁とドライブがてらこんなのも食べちゃったりしていました。

☆下山の古民家風のお店で食した猪鍋定食です。
美味しいものをたくさん食べて幸せになった私ですが、その結果についてはこれから頑張って責任を取ります。
さて、昨日の会では総会の後でしっかり勉強もしてきました。
ひさしぶりの傾聴訓練です。
しかし産業カウンセラー同士が集まって、傾聴訓練という言葉が出たとたん、なぜだか急に皆さんの目が泳ぐ泳ぐ



やはり「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、あの養成講座での傾聴実習は、今振り返ると異様な緊張を強いられる場であったことは間違いなく、そこで初めて傾聴を学んだ方の多くが、傾聴訓練とは厳しく辛く恥ずかしいものというイメージを持ってしまったのかも知れません。
もちろん私も皆さんと同様にあの傾聴訓練を体験してきたわけですが、正直に言って傾聴訓練に対する抵抗感はほとんどありません。
特別に好きなわけではありませんが(体験学習ならグループワークが一番好きです)、やれと言われれば、いつ 何時、誰の話でも聴くという感じです。
傾聴訓練ではセッションの後に振り返りがあり、そこで観察者から様々な意見、感想を出してもらうことで、カウンセラー役、クライエント役として何がしかの気づきを得て学びに繋げるという流れになります。
そういう意味ではセッション自体の目的というのは、上手にカウンセラー役をこなすことではなく、参加者により多くの気づきを得られるような題材であるかどうかなのです。
上手にやろうとか失敗しないようにやろうと思った時点で、カウンセラーの意識はクライエントから離れてしまいます。
指導者や周りの観察者の目を意識したカウンセリングは、いくら振り返りで褒められても、クライエントの援助にはならないし、たいした気づきも得られない、というのが私の考えです。
私は産業カウンセラーの養成講座を受ける前に、既にプロの臨床家の先生からカウンセリング、傾聴を学んでいました。
その先生に言われたのは「自分が何のためにその場所に座っているのかを常に意識すること」という言葉です。
つまり周りの目が気になるのはクライエントに意識が集中していない、クライエントの話がしっかり聴けていないから、ということなのです。
振り返りの際に、要約、見立て、主訴などと言う言葉が使われますが、私自身は15分程度のセッションでそういうことを意識しながら話を聴くことは殆んどありません。
それよりも相手の言葉の意味、表情や態度の変化、目の動き、話す速さ、間や沈黙の意味などを頭の端っこのほうで意識しながら、基本は全身全霊で聴く姿勢で取り組んでいます。
ただ相手の話を聴くという単純なことですが、やはり傾聴は奥が深く難しいものです。
そして聴き手であるその人の全てが傾聴に表れるのだと思います。
傾聴を通して今の自分をさらけ出す覚悟がなければ、やはり腰の引けた中途半端な聴き方になってしまうのでしょう。
上手い下手ではなく、どこまで熱意を持って聴けるか、聴けているか、を問われるのが傾聴訓練なのだ。
私はそう捉えて実践しています。
傾聴訓練のあり方については各個人で考え方が違うと思います。
今回の記事に感じることがあればいろんなコメントを頂きたいと思います。
6月10日(土曜日)に、私個人の主催でグループワーク(構成的エンカウンター)を名古屋駅近くの会場で開催する予定です。
早ければ今週中にも詳しい内容が発表できると思います。

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