『映像詩里山』の記事があり、暇を見ては近くの里山を散歩するのが趣味の「里山アルキニスト」である私としては大変興味深く、そそるものがありました。
映画は無理(他にも見たい映画が目白押しなので)でも、いつかDVDで観てみたいと感じています。
話は飛びますが、カウンセリングを学び始めてかれこれ数年が経ち、機会を見ては様々な研修に顔を出しているのですが、そういった場でいつも感じることがあります。
それは、カウンセリングを学ぶ人達(私も含め)は「多くの知識を得ることでカウンセリングを覚えよう」という人と「肌で感じてカウンセリングを身につけよう」という人の二つのタイプがあるということです。
もちろんそのどちらも大切なことであり、両方をバランス良く学ぶことがカウンセラーとして必要不可欠であることは間違いありません。
ただ、蓄積した(覚えた)知識や理論を実践で生かすためには他者との関係に必要な感性、感受性、共感能力が必要となってくる訳なのですが、それを身につけるにはいわゆる学校教育で経験してきたような勉強をするという方法ではなかなか身につかないものなのだと思います。
とある心理学の本を読んでいたら面白いことが書いてありました。
ほとんどの赤ちゃんは男性、女性の区別なく最初に自他を峻別する存在として「母親なるもの」の絶大な影響を受けることになります。
しかし、成長の過程において女の子の場合はそのまま母親という「女性」をモデルとして蓄積してきたことを断ち切ることなく、その後の他者との関係につなげて行けますが、男の子の場合は「女性化しない」ことが社会で生きていくうえで必要になります。
そこで女の子は身につけてきた「母子関係」をベースとする他者との関係を継続して学んでいけるのに対し、男の子はいったん「母子関係」を断ち切り、そこから離れた他者関係を新たに学ばなければいけないのだそうです。
そこで学ぶ男の子の他者との関係とは、簡単に言えば「競争・序列・優劣」によるモノの獲得なのです。
これは幼い頃の遊びをみても、人形遊びやままごと、ぬいぐるみといった擬人化されたものでのロールプレイのような遊びをする女性に対し、男性の場合は車、ロボット、飛行機などのヒトからかけ離れた「固いモノ」で遊ぶことに表れています。
では、そうした男性が生身の人間との距離感をいつ学ぶのかというと、思春期以降に女性との恋愛によって学ぶのだそうです。
そこで失敗や挫折により生身の女性(人間)との距離感を上手く学べないと、再び慣れ親しんだモノの世界に退行してしまい、モノマニアックな「おたく」として自閉してしまうというのです。
これを読んで、これまで私が参加したりスタッフとして関わってきたカウンセリングの勉強の場で、常に女性の方が(時には圧倒的に)多かった理由がわかったような気がします。
つまり、女性の方がカウンセラーとして必要な他者との距離感を自然に身につけているということなのでしょう。
もちろんこれは男女の違いからみた一つの考え方なので、全てをこれに当て嵌めたり決めつけるのはあまり意味のない事だと思います。
さて、話を里山に戻しましょう。
私はなぜ里山を散歩するのかと言うと、特に理由はありません。
里山と言っても、ただ草木が茂り、山の花が咲き、鳥がさえずり、虫が飛び、風が吹き、日が照り、雨が降り、雲が流れるだけなのです。
しかしそうした場に身を置き、ひとり(時に誰かと)静かに歩くとき、日常の思考から離れ、ただ感じる自分がいるのです。
暑さを感じ、寒さを感じ、寂しさを感じ、嬉しさを感じ、安らぎを感じ、愛おしさを感じ、悲しさを感じ、辛さを感じ…、そして幸せを感じます。
カウンセラーとして大切な心の在り様は、繊細であり強靭である事だと思います。
声にもならない相手のささやかな心の揺れを感じ取る繊細さ…
どんな思いも相手から逃げることなく真っすぐに受け止める強靭さ…
せっかく学んだ多くの(私の場合はあまり多くはありませんが…)知識や理論を生かすためにも、自らの心をいたわり、そして鍛えることを疎かにしてはいけないのだと思います。
里山を一人静かに歩くとき、森羅万象に思いを巡らせながら、こうして生きている自分を感じます。
「考える」ことばかりを自分に強いる生活の中で、里山歩きは「感じる」ことを取り戻す大切な時間なのです。
もうすぐ短い連休(私の会社は3日間です(゜゜))に入ります。
また、いつもの里山を歩こうと思っています。
そろそろ山の柿も色づいているのでしょうか…
前回歩いた時に、蚋(ブヨ)に刺された跡がまだ痒いです。
感じることもなかなか大変なのです。

にほんブログ村